<p>ノイズが多くエネルギーが散逸しやすい生物環境の中で,タンパク質などの生体分子は効率的かつ特異的に機能を発揮するシステムとして,その物理的なメカニズムが注目を集めている.タンパク質は特定の分子と強く相互作用して複合体を形成あるいは解消することで,その機能を変化させることができる.しかし,このような複合体構造の形成・解離の素過程を実験的に観察することは容易ではない.また形成される複合体構造には,安定性が高いものばかりではなく過渡的なものも含まれているので,結晶解析などによる構造決定が困難なものも多い.このため,物理的なシミュレーション法を応用したタンパク質複合体構造の予測や形成・解離メカニズムの研究に大きな期待が寄せられている.</p><p>近年,分子動力学などを応用した分子シミュレーション法の発展は目覚ましく,計算機パワーの向上とともにこの分野の研究が長足の進歩を遂げている.具体的には,多数の分子動力学計算を組み合わせた計算法や長時間分子動力学によって,複合体構造の形成・解離の経路の解析や,結合自由エネルギー計算,速度係数計算等が可能になり,これらのメカニズムに関する研究が推進されるようになってきた.また複合体構造予測(いわゆるドッキング)においても構造モデルの分類や高速な結合自由エネルギー評価によって,予測の信頼性がより高まっている.</p><p>タンパク質–低分子系の複合体立体構造予測においては,タンパク質の大部分を剛体として扱い,タンパク質に当てはまる低分子構造を探索してスコアリング関数で評価する方法が広く使われてきた.我々は低分子をタンパク質の周囲に高濃度で配置した条件下で全原子分子動力学計算を行うことで,タンパク質と低分子の柔軟性を考慮しつつ比較的短時間で低分子を自発的にドッキングさせるConcentrated ligand Docking(ColDock)を開発し,その有用性を示した.</p><p>タンパク質–タンパク質系の複合体立体構造予測では,正解に近い構造を含む大量のタンパク質–タンパク質複合体立体構造モデル群を生成することが従来可能であったが,正解に近い構造を正しく評価して選び出すことは容易ではなかった.そこで我々はエネルギー表示(Energy Representation, ER)法を応用して,大量の複合体立体構造モデル間の結合自由エネルギー差を全原子モデルで計算するevERdock(evaluation with the ER method of docking generated decoys)法を開発し,尤もらしい立体構造モデルを高精度・高効率で選び出すことを可能にした.</p><p>タンパク質複合体の形成・解離の素過程を観察しようとすると,その時間は分子動力学で到達可能な時間よりも遥かに長いことがある.我々は並列カスケード選択分子動力学(Parallel Cascade Selection Molecular Dynamics, PaCS-MD)を用いることで短時間の分散シミュレーションで複合体を解離させ,更に得られた結果をマルコフ状態モデルで解析することで,結合自由エネルギーや結合速度定数・解離速度定数などの量を計算する方法を開発した.</p><p>今後これらのシミュレーション法を用いることで,生体分子が結合・解離する過程の物理的な機構の解明が進んでいくことが期待される.</p>